作曲家情報


演奏会で取り上げた作品の作曲家についての情報です。 

芥川也寸志(あくたがわやすし)

(1925年~1989年)

文豪芥川龍之介の三男として生まれ、幼少から父の遺品のレコードでストラヴィンスキーを聴いて育つ。東京音楽学校では橋本國彦や伊福部昭に指示し、1953年に同世代の團伊玖磨、黛敏郎とともに「3人の会」を結成した。一般にNHK大河ドラマ「赤穂浪士」の音楽が知られるが、代表作はオペラ≪ヒロシマのオルフェ≫(大江健三郎台本)、≪交響三章≫、≪交響管絃楽のための音楽≫、バレエ音楽≪蜘蛛の糸≫≪河童≫等、日本だけでなく世界でも評価され、ソ連で出版もされた≪弦楽のための三楽章≫は1953年、NYフィルによってカーネギーホールで初演され、今年で60年となる。(文責:西耕一)

 

伊藤昇(いとうのぼる)(能矛留)

(1903年~1993年)

長野県の呉服商の息子として生まれ、一時商業学校に入れられるが、音楽をするために17歳で海軍軍楽隊に入隊。軍楽術を学び、後の退団。トロンボーン奏者として映画伴奏オーケストラ等で演奏するうちに山田耕筰と知り合い、作曲を師事する。伊藤の日本の未来派として知られ、当時知り得る前衛音楽の全てを研究して1930年を中心に創作活動を展開した。無調、ポリリズム、ポリトーナル、微分音、様々な技法を取り入れて、モダンな創作を重ねたが、その多くは演奏されなかったようである。≪四分音階律による幼年の詩(1930年)≫も演奏された形跡はなかった。アロイス・ハーバが四分音を初めて使った弦楽四重奏が1921年作であることからも、いかに伊藤昇の創作が最先端を走っていたかがわかる。(文責:西耕一)

 

池辺晋一郎(いけべしんいちろう)

(1943年~)

1943年水戸市生。71年東京藝術大学院修了。66年日本音楽コンクール1位。同年音楽之友社室内楽作曲懸賞1位。68年音楽之友社作曲賞。以後ザルツブルクTVオペラ祭優秀賞、イタリア放送協会賞3度、国際エミー賞、芸術優秀賞4度、尾高賞2度、毎日映画コンクール音楽賞3度、日本アカデミー賞優秀音楽賞9度、放送文化賞、横浜文化賞、紫綬褒章など。主要作品:交響曲No.1~9、オペラ「死神」「高野聖」他。映画「影武者」「楢山節」「うなぎ」「スパイ・ズルゲ」「剱岳・点の記」TV「澪つくし」「元禄繚乱」他。演劇音楽約470本。著書多数。現在東京音楽大学教授、新国立劇場理事、いなとみらいホール他の館長、監督など。09年3月まで13年間「N響アワー」出演。(文責:西耕一)

 

伊福部昭(いふくべあきら)

(1914年~2006年)

北海道釧路生まれ。少年時代を過ごした音更でアイヌの文化に触れ、民族音楽に強い関心を持つようになる。札幌二中(現・札幌西高)を卒業後は北海道帝国大学林学実科に入学。在学中に早坂文雄、三浦淳史、長兄の宗夫、次兄の勲らと「新音楽連盟」を結成し、「国際現代音楽祭」を開催して最先端の現代音楽を取り上げる。卒業後は林務管として厚岸の森林事務所に勤務する。1935年、自身初の管弦楽曲である≪日本狂詩曲≫でパリのチェレプニン賞を受賞し、その3年後には≪ピアノ組曲≫がベネチア国際現代音楽祭に入選。一躍その名を知られるようになる。1943年に≪交響譚詩≫でビクター管絃楽懸賞一位入賞し、翌年にレコード盤は文部大臣賞受賞。戦後は東京音楽学校(現・東京藝術大学)作曲科講師に就任し、黛敏郎、芥川也寸志、池野成、松村禎三らの多くの作曲家を育てる。また、1974年には東京音楽大学教授となり、1976年に学長も務める。純音楽のみならず数多くの映画音楽の作曲でもよく知られ、中でも「ゴジラ」シリーズの音楽は人気が高い。代表曲に≪土俗的三連図≫、≪交響譚詩≫、≪サハリン島先住民族の三つの揺籃歌≫、≪シンフォニア・タプカーラ≫、≪ピアノと管弦楽のためのリトミカ・オスティナータ≫、≪バレエ音楽「サロメ」≫、≪郢曲「鬢多々良」≫、≪交響頌偈「釈迦」≫、≪日本組曲≫等。著書に『管絃楽法』、『音楽入門』。紫綬褒章受章、勲三等瑞宝章受賞、文化功労者。(文責:西耕一)

 

鹿野草平(かのそうへい)

(1980年~)

神奈川県横浜市出身。東京音楽大学作曲科・同大学院修了。2009年、第2回全日本吹奏楽連盟作曲コンクールにおいて、「吹奏楽のためのスケルツォ第2番≪夏≫」が第1位を受賞、同曲は2010年度全日本吹奏楽コンクール課題曲となる。代表作には「よみがえる大地への前奏曲」、「ファイブ・コンビネーション」、「絃楽四重奏のための≪ハード・テクノ≫」、アニメ「フラクタル」サウンドトラック等がある。作曲を有馬禮子、池辺晋一郎、甲田潤、西村朗、藤原豊、三木稔、水野修孝、指揮を紙谷一衛、汐澤安彦、薩摩琵琶を田中之雄の各氏に師事。(文責:西耕一)

 

菊池俊輔(きくちしゅんすけ)

(1931年~)

1931(昭和6)年11月1日、青森県弘前市出身。日本大学芸術学部音楽学科(作曲専攻)卒業。1961(昭和36)年、佐藤肇監督作品『八人目の敵』(東映)でデビュー。その後、東映を中心に、松竹、大映などで数多くの映画音楽を手がける。テレビ音楽デビューは、1963(昭和38)年のNHKドラマ『野菊の墓』。その後、『キイハンター』から『Gメン'75』などのTBS系放映の東映アクション・ドラマ、『赤い疑惑』をはじめとする「赤い」シリーズ、『スチュワーデス物語』『スクール☆ウォーズ』などの大映テレビ作品、『暴れん坊将軍』など、数多くのジャンルで活躍。アニメーションは、1965(昭和40)年の『宇宙パトロールホッパ』を皮切りに、『タイガーマスク』『バビル2世』『ドカベン』など、1971(昭和46)年『仮面ライダー』から続く同シリーズや、2011(平成23)年に映画化で音楽もリメイクされた『電人ザボーガー』(1974)をはじめとする数多くの特撮ヒーロー番組、子供向けドラマの主題歌、挿入歌、BGMを担当。手がけた作品は、大ヒットによって長寿となるものが多い。<菊池俊輔音楽祭のパンフレットより

 

貴志康一(きしこういち)

(1909年~1937年)

12歳でミッシャ・エルマンの演奏を聴いて衝撃を受け音楽への道へ進み、18歳でジュネーヴ音楽院へヴァイオリンで留学、20歳でストラディバリウスを購入、24歳でヴァイオリン協奏曲を作曲、自身が監督もした映画の音楽を作曲、25歳でベルリン・フィルを客演指揮と華々しい活動を知られる貴志。フルトヴェングラーやヒンデミットにも習い、将来を嘱望されながら28歳で夭逝した。貴志にとって現存する最古の器楽曲は、17歳で作曲した≪弦楽四重奏「まつり」(1926年)≫と思われる。また、貴志の年譜を見ると1926年2月6日・7日、中島中央公会堂でドヴォルジャック弦楽四重奏団の一員として演奏とある。(文責:西耕一)

 

小山清茂(こやまきよしげ)

(1914年~2009年)

長野の山奥に生まれ、民謡が身近に歌われる村で、当初は短歌に興味を持ち、一時は歌人を目指した。ラジオもない村で育ち、通信講座で安部幸明に作曲を学び、当初は教員として二足のわらじで作曲を続けた。その代表作は、小学校の音楽教材にもなった≪管弦楽のための木挽歌≫(1957)や吹奏楽曲の数々。木挽歌は日本のオーケストラの海外公演における貴重なレパートリーとなり、現在も多く演奏される。ノコギリで木を切るのをイメージした弦楽奏法で描かれる九州の木挽歌が題材となったもの。そのように民謡を採取して自作に取り入れることも多かった。主要作品に≪管弦楽のための信濃囃子≫≪交響曲「能面」≫≪管弦楽のためのうぶすな≫≪音楽劇「楢山節考」≫≪オペラ「山城国一揆」≫≪テープを伴った管弦楽による鄙歌第1番≫等がある。

 

佐藤勝(さとうまさる)

(1928年~1999年)

北海道留萌市生まれ。生家の近くに映画館があったことから、また母親が映画好きだったことから幼少時より映画に親しんだ。とりわけ映画から流れてくる音楽に心を惹かれた。1951(昭和26)年3月、音楽で身を立てるために入学した国立音楽学校を卒業する1週間前、映画音楽の仕事に就きたいという想いをどうしても捨てきれずに黒澤明監督作『羅生門』(1950/大映京都)の音楽ですっかり心酔していた早坂文雄の門を叩く。『羅生門』との出会い。『羅生門』から聞こえてきた早坂文雄の音楽。これが佐藤の人生を決定づけた。

 その後、音楽学校の講師やバンドマンの仕事に従事して生計を立てながら、早坂の助手のような形で師から映画音楽作曲技法を学んでいく。早坂が音楽を手がける溝口健二監督作や黒澤明監督作、ほかの作品でアシスタント兼協同作業者をつとめる。佐藤は早坂の手伝いをするとともに、師から映画音楽作曲術、映画に音楽を付すにあたっての考え方、映画音楽作曲家としての姿勢、心構えなどを学んでいった。

 1952(昭和27)年、早坂の推薦を受けて新理研プロダクション作品『三太と千代の山』(小田基義監督)で映画音楽デビューを飾った。同作はクレジット上では早坂との共作となっているが、実質、佐藤の単独担当作品だった。以後、師との共作も経験しながら、主に新東宝の小品で腕を磨いていく。

 1953(昭和28)年、小田基義が東宝に復帰した。それにともなって東宝作品『ゴジラの逆襲』(1955)の音楽担当者に抜擢される。滝沢英輔監督作『六人の暗殺者』(1955/日活)とともに、佐藤自ら「映画音楽の入学試験だった」とふりかえる同作の音楽は高評価を獲得し、以後、映画音楽作曲家としてひとり立ちし、大手各映画会社のプログラム・ピクチャーを筆頭に大作から独立映画プロダクションの小品に至るまで、さまざまな分野の映画で健筆をふるっていく。

 1955(昭和30)年、早坂文雄が急逝した。師の逝去を受けて早坂の絶筆作品となった黒澤明監督作『生きものの記録』(1955/東宝)の音楽をまとめ上げたことが契機となり、1957(昭和32)年の『蜘蛛巣城』(東宝)から黒澤明とのコンビが築かれる。1965(昭和40)年の『赤ひげ』(黒澤プロダクション、東宝)まで、佐藤は全8本の黒澤映画の音楽を担当した。この一連の仕事で佐藤の名は世界に知れわたった。

 黒澤明ばかりでなく、そのほか多くの日本映画の巨匠・名匠たちからも全幅の信頼が寄せられた。幾人かの名をあげれば、岡本喜八、沢島忠、福田純、山本薩夫、田坂具隆、五社秀雄、森崎東、佐藤純彌などは常に佐藤音楽を強く欲した。代表作にあげられる作品群も実に多い。これらの監督作ばかりでなく、日本映画の名作、傑作、佳作、秀作、その少なからずの作品が佐藤音楽に彩られたものである。

 佐藤の音楽は変化自在なスタイルで種々様々な映画に寄り添っていった。映画音楽で最も大切なものは音色、音のカラーだ、という信念のもと、佐藤でなければ導けないと思わせる響きとリズムで映画を躍動させた。たとえば、日活活劇映画や岡本喜八の「暗黒街」シリーズ、「独立愚連隊」シリーズ、福田純の荒唐無稽風娯楽作を彩ったビッグバンド・ジャズ調の鳴りは、佐藤音楽のアグレッシブかつ陽性の特徴を端的に伝えてくる。人間ドラマ映画、文芸映画を包み込んだリリカルな旋律、和声豊かな調べ、活劇映画でとどろく躍動的で観る者の感情を正面から刺激していくサウンド、映画の方向性にかんがみ、剛柔自在な音楽を付した時代劇映画や戦争映画などにおける音楽采配は佐藤の真骨頂だった。

 映画音楽作曲の仕事はおよそ半世紀にわたった。1952年のデビューから2000年代の到来の時代までに組んできた監督は100人近くとなり、担当本数も300作を優に超える(ただし、これは佐藤公認のもの)。文字通り日本映画史を常に書き換えながら歩んできた映画音楽作曲家である。 黒澤明の遺稿を映画化した、小泉堯史監督作『雨あがる』(1999/「雨あがる」製作委員会)が遺作となった。1999(平成12)年の暮れ、『雨あがる』の封切りを待たずして、自身の叙勲を祝うパーティー会場で倒れ、不帰の客となった。(小林淳)<佐藤勝音楽祭のパンフレットより>

 

白石茂浩(しらいしあつひろ)

(1958年~

1958 年うまれ。音大ピアノ科在学中より指揮を山田一雄に、卒業後1981~1983 年ウィーンにてクルト・ヴェスに師事。帰国後、作曲を團伊玖磨に師事し作曲家への道を歩む。

ヴァイオリンファンタジー(初演1988 年北九州)、現代舞踏のためのPersonalPhase(初演1993年アントワープ)、合唱とオーケストラのための諫早讃歌「有明」(1993 年諫早)、フルーティー・スイート(初演2005 年NHKFM 放送)、ソプラノソロ・バリトンソロ・合唱とオーケストラのためのレクイエム(初演2008 年諫早)、夕鶴幻想「つうの回想」(初演2009 年横浜)、弦楽合奏のための四章「春夏秋冬」(初演2013 年横浜)ほか

 

助川敏弥(すけがわとしや)

(1930年~2015年)

東京芸術大学卒業。在学中に日本音楽コンクール第一位、特賞。1960年、文部省芸術祭奨励賞。1971年、文化庁芸術祭優秀賞。1973年、国際放送作品コンクール「イタリア賞」NHK参加作品大賞。主要作品、ピアノのためのタペストリー、ピアノ曲「山水図」、ピアノ小曲集「ちいさな四季」、被爆ピアノとオーケストラと電子音による「おわりのない朝」、歌曲集「夕顔」、「薔薇の町」、合唱曲「白い世界」、等。環境音楽、鹿島建設本社ビル、技術研究所、道路公団東名高速「足柄SA」館内音楽。日本音楽舞踊会議代表理事。機関誌、季刊「音楽の世界」編集長。

 

團伊玖磨(だんいくま)

 

(1924年~2001年)

團伊玖磨は1924年4月、東京に生まれた。祖父は、当時日本経済界のリーダーであった三井合名会社理事長團琢磨である。8歳の頃から本格的にピアノを習い始め、14歳の時に山田耕筰の鶴の一声で父團伊能の反対を押し切り、作曲家を目指すことになる。戦時色が深まる中、1942年に東京音楽学校(現東京芸術大学)に入学し、下総皖一に和声学、対位法を、橋本國彦に近代和声学、管弦楽法を、細川碧に楽式論を学ぶ。同時に学外で山田耕筰に主に歌曲の実作の指導も受ける。また、1944年春には音楽学校在籍のママ戸山陸軍学校楽隊に入隊し、鼓手を務めるかたわら芥川也寸志らとともに吹奏楽編曲に従う。これは吹奏楽の総譜に熟達する良い機会だったと、後に團自身が言っている。1945年夏、敗戦とともに復員し、その秋には音楽学校を卒業する。しかし、自分の作曲技法に不満を持っていた團は、その後も諸井三郎に対位法と楽曲構造について、近衛秀麿に管弦楽法と指揮法を学ぶ。その一方で、1947年にNHKのラジオ番組のために作曲した「花の街」をきっかけにNHKの専属作曲家となる。因みに、「ぞうさん」「やぎさんゆうびん」「おつかいありさん」「ラジオ体操第2」などは、この頃の作曲である。そして1950年、NHK創立25周年記念コンクールで「交響曲イ調」が芥川也寸志の「交響管絃楽のための音楽」とともに特賞を受け、本格的な楽壇デビューを果たす。その後1952年のオペラ「夕鶴」を皮切りに、1954年から始まった「3人の会」(團、芥川也寸志、黛敏郎)の一連の活動を経て、最晩年のオペラ「建・TAKERU」、歌曲集「マレー乙女の歌へる」に至るまで精力的に作曲、及び自作の演奏を続ける。その作品は、オペラ7曲、交響曲6曲を含む管弦楽作品、合唱曲、カンタータ等の対策を柱に、演劇付帯音楽、映画音楽、吹奏楽、室内楽、歌曲、童謡等あらゆるジャンルに及ぶ。一貫して汎アジア的視野から日本の音楽を創ることを基本姿勢とし、日中文化交流の分野でも献身的に従事する。また随筆家としても優れた才能を示し、「パイプのけむり」はアサヒグラフ誌に36年間連載した。2001年5月、中国蘇州にて逝去(文責:原伸夫)

西村朗(にしむらあきら)

(1953年~)

東京藝術大学卒業。同大学院修了。日本音楽コンクール作曲部門第1位を初め、数々の賞を受賞。エリザベート国際音楽コンクール作曲部門大賞、ルイジ・ダルッラピッコラ作曲賞、尾高賞を5回、中島健蔵音楽賞、京都音楽賞、[実践部門賞]、エクソンモービル音楽賞、第3回別宮賞、第36回サントリー音楽賞、第47回毎日芸術賞。2013年紫綬褒章。2000年よりいずみシンフォニエッタ大阪の音楽監督、NHK「N響アワー」、同FM「現代の音楽」の司会などを務める。また2010年より草津夏期国際音楽祭の音楽監督に就任。東京音楽大学教授。(文責:西耕一)

 

信時潔(のぶとききよし)

(1887年~1965年)

大阪で教会の牧師の三男として生まれ、賛美歌やオルガンを聴いて育つ。東京音楽学校ではチェロを専攻しユンケル、ヴェルクマイスターの二人に習う。≪海ゆかば≫≪海道東征≫が広く知られ、声楽なしの純粋な器楽作品としては、≪絃楽四部合奏≫が最も大きな編成。文部省の在外研究員としてドイツ留学をしてベルリン芸術大学でゲオルク・シューマン(諸井三郎や箕作秋吉の師)に作曲を師事。(文責:西耕一)

 

林光(はやしひかる)

(1931年~2012年)

東京神楽坂で生まれ、尾高尚忠と池内友次郎に習い、自由学園で早期教育を受けた。1953年には外山雄三、間宮芳生等と山羊の会(後に助川敏弥が参加)を結成。同学年の藝大中退は学外発表による大学側の態度と既成作曲家への疑問から。管弦楽、器楽、合唱、オペラ演劇映画音楽、様々なジャンルに及ぶ活動は、こんにゃく座、東京音声合唱団等多くのプロ・アマ合唱団、映画監督、劇団、緋国民楽派・・・と二人三脚で行った。林は「現代音楽に人間のうたを・・・」と、黛敏郎の「現代音楽に神を・・・」に絡めて言ったが「人間のうた」とは覚えやすいメロディーでも民族主義でも大衆路線でもなく、「今日の状況、僕らの時代」がもたらすもの。他人事では無く、常に自分の問題として書いた。数多いソングはそのような意思の決勝。声楽曲は勿論として、器楽曲にも反映されている。代表作は1958年に<水ヲ下サイ>を発表して2001年<永遠のみどり>までかけて完成された合唱曲≪原爆小景≫、傑作として誉れ高い≪ヴィオラ協奏曲≫(1995)、3つの交響曲、ギターや木琴の協奏曲、ピアノ・ソナタ、弦楽四重奏等々。JASRACの作品データベースに登録されている林光の作品の数は1666曲。その膨大な作品群はCD20枚(約25時間)、400ページの書籍で『林光の音楽』としてまとめられている。 (文責:西耕一)

 

別宮貞雄(べっくさだお)

(1922年~2012年)

ベルリン留学経験もある父のレコードを聴いて幼少から洋楽に親しむが、ピアノは19歳でバイエルからはじめた。旧制一高のクラブ活動でヴァイオリンと男声合唱(高田三郎の指導であった)を、さらに東大物理、後に美学へと進むが、研究心が高じて池内友次郎に作曲を師事。この頃は小倉朗や吉田秀和と交友を深め、パリ音楽院へ留学、ミヨーとメシアンに指示。矢代秋雄、黛敏郎が同期となる。帰国後は桐朋や中央大学で後進を育てた(中村紘子や堤剛も教え子)。その創作は4つのオペラ、5つの交響曲、ピアノ、ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラへの協奏曲、ソナタ、声楽曲と満遍ない。いずれも別宮特有の自然な歌心と処方・構築性が見事に寄り添った音楽である。(文責:西耕一)

 

松村禎三(まつむらていぞう)

(1929年~2007年)

京都で生まれ育ち、旧制三校を卒業後上京。池内友次郎に師事して藝大を受験するも、両肺結核がっみつかり5年半に及ぶ療養生活を行い、一時は死の淵をさまよった。松村はその経験を、病身で動けぬままに一点をみつめて物事を考えたことは仏教の坐禅に近い境地であったと語る。根源を見つめる思考法は、「生命の根源に直結したエネルギー」「アジア的発想による音楽」へ至り、≪交響曲第1番≫を経て、≪管弦楽のための前奏曲≫、≪ピアノ協奏曲第1番≫、同第2番、オペラ≪沈黙≫に繋がる。映画音楽は100作、演劇音楽は50作を数える。教育者としては東京藝術大学、東京音楽大学等で教鞭を執った。著書に『松村禎三句集 早夫抄』、『松村禎三 作曲家の言葉』がある。(文責:西耕一)

 

眞鍋理一郎(まなべりいちろう

こちらを参照ください。

 

黛敏郎(まゆずみとしろう)

(1929年~1997年)

1929年(昭和4年)2月20日、横浜生まれ。東京音楽学校で橋本國彦、池内友次郎、伊福部昭等に指示。1948年(昭和23年)の「ディヴェルティメント」により才能を認められる。1950年(昭和25年)の「スフェノグラム」は、翌年のISCM国際現代音楽祭に入選して海外でも知られるようになる。1951年(昭和26年)パリ・コンセルヴァトワールへ留学。フランスから帰国後、ミュージック・コンクレートや日本初の電子音楽を手がけた。1953年(昭和28年)芥川也寸志、團伊玖磨と「3人の会」を結成。また、吉田秀和等と「二十世紀音楽研究所」を設立。雅楽・声明をはじめ、日本の伝統音楽にも造詣を深める一方、交響曲、バレエ、オペラ、映画音楽等の大作を発表した。1964年(昭和39年)より、テレビ番組「題名のない音楽会」の企画、出演。東京芸術大学講師、「日本作曲家協議会」会長、「日本著作権協会」会長などを歴任した。「涅槃交響曲」(1958年)で第7回尾高賞、「BUGAKU」で第15回尾高賞を受賞。ISCM入選(昭和31,32、38年)。毎日映画コンクール音楽賞(昭和25、32、38、40年)。毎日演劇賞(昭和33年)。ブルーリボン賞(昭和40年)。仏教伝道文化賞(昭和50年)。紫綬褒章(昭和61年)。1977年(平成9年)4月10日逝去。(文責:西耕一)

三木稔(みきみのる)

こちらを参照ください。

水野修孝(みずのしゅうこう)

(1934年~)

千葉大学文学部(政経学部に転科)を経て、東京藝術大学楽理科で柴田南雄、小泉文夫等に学び、さらにジャズを渡辺貞夫に学んだ。多彩な経歴が反映された創作は「音楽の混血」を志向する。クラシックの伝統を受け継ぎ、ジャズ、ロック、テクノ、ヒップホップまでを取り入れ、世界各国の民族音楽を渉猟、音楽の混血・ハイブリッド化を追求する作曲家である。3つのオペラ、4つの交響曲、マリンバの協奏曲、5つのミュージカル、電子音楽や即興音楽まで多岐にわたる創作を知られるが、総決算である《交響的変容》四部作(演奏には3時間、奏者は700人必要)は26年に及ぶ年月を費やし完成された。2000年頃からシンプルだが味わい深い弦楽合奏を多く書いている。これまでに芸術祭優秀賞、千葉県文化功労賞他、受賞多数。(文責:西耕一)

 

宮内國郎(みやうちくにお)

1932年2月16日東京都世田谷生まれ。『ウルトラQ』『ウルトラマン』『快獣ブースカ』『ガス人間第一号』『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』などの音楽を手掛けたアニメ・特撮音楽の巨匠。ジャズの味わいを基本に、オーケストラサウンドまで幅広くフォローした作風で、児童合唱を使った『チャージマン研!』の主題歌、挿入歌、不気味サウンドやビートの効いたロックもふまえたBGMは重要作品である。2006年11月27日に74歳で亡くなった。(文責:西耕一)

 

山田耕筰(やまだこうさく)

(1886年~1965年)

1910年から3年間のドイツ留学で日本人初のオーケストラ作品を作曲した山田耕筰であるが、この曲は東京音楽学校時代のものである。その頃の山田派、ヴァイオリンニストのアウグスト・ユンケル(ハイフェッツ、エルマン、ジンバリスの師)とチェリストのハインリッヒ・ヴェルクマイスターに理論やチェロを学びつつ試作を重ねていた。信時潔も同じ二人に習っており、東京音楽学校で初めて結成された生徒の弦楽四重奏団のチェロ奏者は、幸田修造(露伴の末弟)→山田耕筰→信時潔と受け継がれた。ユンケルとヴェルクマイスターにより合奏の魅力を知った彼らはベートーヴェンの弦楽四重奏全曲をこなし、ブラームスはほぼ暗譜したという。(文責:西耕一)

 

山本和智(やまもとかずとも)

山口県萩市出身。独学で作曲を学ぶ。オーケストラ、室内楽、アンサンブル、合唱、独奏曲、映画音楽など 作曲活動は広範に亘り、作品は東京フィルハーモニー交響楽団、日本フィルハーモニー交響楽団、京都フィルハーモニー室内合奏団等の演奏団体・演奏家らによって日本をはじめカナダ、フランス、ドイツ、オラン ダ、ベルギー、アメリカ、マレーシア、ロシアなど広く演奏されている。

2006 年モリナーリ国際作曲賞第1位(カナダ)、2007 年 AIC/Mostly Modern 国際作曲コン クール第1位(アイルランド)、2009 年度武満徹作曲賞第2位(審査員:ヘルムート・ラッヘン マン)、2010 年第5回 JFC 作曲賞(審査員:近藤譲)、2011 年、第 6 回ユルゲンソン国際作曲賞第2 位 ( ロ シ ア ) 、 TOKYO EXPERIMENTAL FESTIVAL ― SOUND, ART & PERFORMANCE vol.7 奨励賞受賞など作品は国内外問わず高く評価されている。和光大学表現学部総合文化学科非常勤講師。

 

渡辺岳夫(わたなべたけお)

(1933年~1989年)

1933年4月16日、東京都練馬区生まれ。作曲家。

5人兄妹の長男として生まれ、兄妹それぞれが演出家、声楽家、演奏家、陶芸家という芸術一家の中で育つ。武蔵大学経済学部在学中より、作曲家である父・渡辺浦人に師事しながら音楽を学ぶ。昭和60年代頃からテレビが家庭に普及する中、週に10本以上のレギュラーを持つほどの売れっ子作曲家として、テレビドラマやアニメーションで1万曲を超える楽曲を生み出す。特に毎週ゴールデンタイムに放送されるアニメーションの主題歌ではヒット曲が多く、渡辺岳夫の音楽は映像と一体化して人々の心に深く刻み込まれている。そのメロディーは放送を通して国内外で広く親しまれ、世代を超えて今も多くの人々に受け継がれている。元年の1989年6月2日に癌のため56歳の若さでこの世を去る。

http://www.sankyoshinsha.jp/one_mans_music/profile/index.html <渡辺岳夫音楽祭のパンフレットより

 

渡辺宙明(わたなべちゅうめい) 

1925年(大正14年)8月19日愛知県名古屋市で生まれる。旧制八高理科を卒業後、東京大学文学部心理学科に学ぶ。卒業論文は「旋律的音程の力動性に関する実験心理学的研究」。作曲を團伊玖磨と諸井三郎に、ジャズ理論を渡辺貞夫に師事。 作曲家デビューはCBC(中部日本放送)のラジオドラマ「アトムボーイ」(1953年)からである。映画音楽作曲家としては、新東宝の映画「人形佐七捕物帖 妖艶六死美人」(1956年)や「鋼鉄の巨人(スーパージャイアンツ)」(1957年)などを皮切りとして、現在までに200作を超える映画に作曲した。 1972年に手がけた「人造人間キカイダー」と「マジンガーZ」がきっかけとなり、特撮やアニメの仕事も増え、世界的な人気を博す。東映スーパー戦隊もののスタートとなった「秘密戦隊ゴレンジャー」(1975年)から続くシリーズでは、BGMだけでなく、挿入歌の作曲者としてもこのシリーズを支え続けている。また金字塔を打ち立てた「宇宙刑事ギャバン」(1982年)から続くメタルヒーローシリーズは、最近も宇宙刑事Next Generation(2014年)で主題歌、BGMを作曲して高く評価を受けた。CM音楽やゲーム音楽も手がけており、戦後のラジオドラマからスタートして、メデイアの変遷とともに作曲を続けている作曲家である。2012年には長年の功績を東京アニメアワード第8回功労賞。2014年11月にはジャスラック永年正会員を顕彰された。2015年8月、2016年3月、5月、自身の卆寿記念コンサートではアンコールで指揮者として自身の楽曲を指揮した。現在、91歳を迎え、数多くのイベント、CD企画が進行中である。(文責:西耕一)


 

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